夏の東京で実質唯一の音楽祭、サントリーホール(サントリー芸術財団)主催の「サマーフェスティバル」。2020年は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的拡大を受けてテーマ作曲家のイザベル・ムンドリーをはじめ、海外アーティスト関係は中止を余儀なくされたが、ザ・プロデューサー・シリーズ「一柳慧がひらく」と「芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会」が様々な対策を施し、予定通りに開催できたのは奇跡に近い幸いだった。
私は「2020 東京アヴァンギャルド宣言」と題した一柳プロデュースのうち、8月26日の「オーケストラ スペース XXI-1」、30日の「同-2」の管弦楽2公演を通じ、6人の作曲家の新旧7作を聴いた。
26日は読売日本交響楽団(読響)の出演で、30日に自作初演を控えた杉山洋一が指揮者として登場した。高橋悠治(1938ー)の旧作「鳥も使いか〜三絃弾き語りを含む合奏」(1993)、「オルフィカ〜オーケストラのための」(1969)を両端に置き、中心に山根明季子(1982ー)の「アーケード〜オーケストラのための」(2020)、山本和智(1975ー)の「《ヴァーチャリティの平原》第2部ⅲ)浮かびの二重螺旋木柱列〜2人のマリンビスト、ガムランアンサンブルとオーケストラのための」(2018ー2019)と、サントリーホールが中堅世代に委嘱した新作の世界初演をはさむ構成。巨大編成(山本)、2階にも楽員を配置する特殊編成(高橋の後者)などに対応しつつ、読響の厳しいソーシャル・ディスタンシング(社会的距離の設定)基準を満たすため、1階座席の前6列を取り払う思い切った措置に、まず驚く。読響は時に2手に分かれる第1ヴァイオリンに小森谷巧、長原幸太とコンサートマスター2人を投入、首席たちの達者なソロに至るまで献身的な演奏態度だった。
「鳥も使いか」では高橋の作風や杉山指揮読響の管弦楽よりも、三絃と語りを担った本條秀慈郎の妙技に耳を奪われた。先月も藤倉大「三味線協奏曲」の日本初演(大野和士指揮東京都交響楽団との共演)で気を吐いたばかりだし、コロナと無縁だった1年前の夏にも川口リリアホールの濵田芳通プロデュース「ダ・ヴィンチ音楽祭」で別の高橋作品を演奏するのを聴き、感心した覚えがある。山田耕筰の「長唄交響曲」(1934)以来、西洋楽器のオーケストラと邦楽器の共演がゆっくりと定着するなか、武満徹作品における鶴田錦史(琵琶)、横山勝也(尺八)、宮田まゆみ(笙)らをはじめ、同時代音楽の演奏会に欠かせない和の名手たちの系譜が育まれた。本條もそうした系譜の奏者の1人であり、独特の緊張が糸を引くように持続する高橋作品においても、ホール全体を支配するカリスマ性で傑出していた。
初演2作では山本の「ヴァーチャリティの平原」が断然、面白かった。西岡まり子と篠田浩美のソリスト2人だけでなく楽員のマリンバ演奏も交え、大人数のガムラングループ「ランバンサリ」ともども野生の響きを重ね、西洋近代の洗練された文化装置であるオーケストラに対峙する。不思議なことに、闘争の激しさよりは、深海魚が悠然とうごめくような感触を覚える。幕切れに向かっての追い込みも確かで客席は沸いた。山根の「アーケード」はBGMなどの甘美で耳障りのいい〝雑音〟に満ちた世相のパロディー。安っぽく心地いい音楽が重なり合ってトンデモナイ事態に至る、「混ぜるな危険」の仕掛けが随所に仕掛けられ絶えず何かに邪魔されている感じが怖い。その分「手の内」が見え過ぎるリスクを負った。
圧巻は51年前の高橋作品、「オルフィカ」だった。1968年5月28日、東京文化会館大ホールの(旧)日本フィルハーモニー交響楽団第181回定期演奏会で当時の首席指揮者・芸術顧問、小澤征爾指揮が初演。邦人作曲家に新作を委嘱する「日本フィルシリーズ」の第21作に当たり、小澤に献呈された。1968ー1969年は第二次世界大戦後の社会秩序に反旗をひるがえした若者たちが世界で立ち上がり、日本も東京大学安田講堂攻防戦(1月18日)、三島由紀夫と東大全共闘の討論(5月13日、最近になって映画化された)、国際反戦デー闘争(10月21日)などに揺れた。高橋と小澤が当時本拠としていた米国でも6月28日、LGBTの人々が初めて警察権力に立ち向かった「ストーンウオールの反乱」が起きた。
「タイトルは古代のオルフェウス教から。伝説の詩人・音楽家オルフェウスは何回も死んではよみがえる」と記した高橋は、楽曲解説を「われわれは覆われた洞窟に入った」という古代ギリシャの哲学者、エンペドクレスの詩の引用で結んだ。極大化する社会の矛盾を冷めた狂気の刃であぶり出し、執拗なまでに覚醒を促す。オルフェウスの輪廻よりは斬っても斬っても再生するヒドラのようでもあり、COVID-19対策に難儀する2020年の世界にも〝有効打〟の音楽として生々しく響いた。小学校高学年から高橋に傾倒してきた杉山と読響の演奏も念入りで、深い感銘を誘った。1曲目では起立を促されても座ったままだった作曲家も熱い反応を目の当たりにして重い腰を上げ、照れ臭そうに喜んだ。高橋悠治、おそるべし!
30日は東京フィルハーモニー交響楽団の出演。作曲者の川島素晴(1972ー)が指揮も兼ねた「管弦楽のためのスタディ《illuminance / juvenile》」(2014/20)以外は、鈴木優人が振った。他の2作品ーー杉山洋一(1969ー)「自画像〜オーケストラのための」、一柳慧(1933ー)「交響曲第11番《φύσις(ピュシス)》」(2020)ともども、サントリーホール委嘱作品の世界初演である。川島は「明るく」「楽しい」作品の今日的意味を究めたという。「照度」を意味する第1楽章「illuminance」はなるほど、ギラギラと輝き、はちゃめちゃに盛り上がって終わる展開に無条件のカタルシスがあった。だが「幼年性、少年・少女向け」の第2楽章「juvenile」には、少なからぬ否定的反応が返ってきた。指揮台上の川島は楽員ではなく客席を向き、様々な身体表現でオーケストラを駆り立て〝理想の音〟を引き出そうと悪戦苦闘するが、楽員は次第に興味を失い投げやりとなる。最初はスマホやゲーム、新聞などで気を散らしていたが、やがてそれにも飽きて1人、また1人と舞台を去る。最後は大太鼓の一撃で指揮者も息絶え、大の字になって倒れると照明が暗転。寝たままの主人公が拍手を浴びるのは、オペラのヒロインではなく、同時代音楽の作曲家という設定だ。
だが待て! 楽員が徐々に去るアイデアは1772年(ほぼ250年前!)にハイドンが「交響曲第45番《告別》」で実践。指揮台で倒れる曲も、アルゼンチンからドイツに渡ったマウリシオ・カーゲル(1931ー2008)の「フィナーレ」(1981)の有名な先例がある。オーケストラ奏者のモラル(士気)に関しての風刺的視点であれば、フェデリコ・フェリー二監督のイタリア映画「オーケストラ・リハーサル」(1978)の残像もまだ、強烈だ。音楽評論家の澤谷夏樹さんはFacebookのタイムラインに「ドリフターズがオーケストラの真似をするのと、オーケストラがドリフターズの真似をするのとだったら、そりゃ前者のほうが面白いに決まっている」と書きこみ、「この人の作品はご自分が思っているほど楽しくも面白くもない」と切り捨てた。私はそこまで厳しくない?が、聴きながら「ザ・ドリフターズの昭和」を思い出したのは事実。どのような曲であるにせよ、コンサートマスター近藤薫以下、全員が「現代音楽の茶番劇」を忠実に演じた東京フィルはプロフェッショナルだった。
ミラノが本拠の杉山は、イタリア語で「Autoritratto」と名付けた自作について「アウトリトラット(Autoritratto)とは、伊語で『自動抽出』より転じ『自画像』の意。『自画像』は、自分が生まれ、シュトックハウゼンの『賛歌(ヒュムネン)』 が完成した1969年から現在までの半世紀における世界各国の戦争紛争 地域の国歌や州歌を、極力時間軸に沿って並置したもの」と解説した。作曲が佳境に差し掛かったころ、イタリアのコロナ禍は急激な悪化に転じ、妻のピアニスト黒田亜樹が日本で仕事中だった杉山は長期の単身生活を余儀なくされた。楽曲の最後に現れるトランペットのソロは「イタリア軍の弔礼ラッパで、米軍とほぼ同じもの」「3月のイタリアでは陸軍のトラックが柩を各地の火葬場、墓地に運搬する際、 墓地をあずかる市長がこの旋律で隊列を出迎えた」という。杉山は「繰返された光景の記憶。以前からオーケストラは世界のようだと感じていたから、これを機に生きてきた半世紀を顧みたいと思った」。冒頭の古典的佇まいは瞬く間に音響のカオスに展開、圧倒的な音量の洪水の随所に聴き覚えのある旋律が明滅しつつ、静寂に帰すうする。良い作品だ。
作曲家としての杉山については以前、当HPで書いたことがあるので再掲しておく:
一柳は今回、プロデューサーとして得難い力量を改めて知らしめた。「前衛」にこだわりつつ世代、バックグラウンド、本拠地を異にする作曲家を注意深く集め、サントリーホールに「いまの世の中」の写し絵を現出させた。87歳でも衰えない好奇心とシャープな感性、ベテランならではの「引き出し」の多さは11番目の交響曲にも、遺憾なく発揮されていた。
プログラムノートはーー
「人類にとって自然は、私達自身の身体が分かち難く結びついたものであり、人間が自然の分身の一部であることを考えると、それは何か別の独立した存在でないことは明白である。だが、ホモサピエンスである人間は、脳を働かせることによって、人工的別世界の疑似的自然をつくり上げ、実際の自然をゆがめたり、開発したり、破壊することで コントロール行なおうとしている。その異和性から育まれてくる未知な矛盾や不条理な世界を、調和に富んだ音によって少しでも回復できるようにするには何が可能だろうか。11番の問いは、まだ先へ続く」と、いささか難解である。ところが、実際の管弦楽は時にロマンティックにすら響き、シベリウスからマーラーを経てジョン・ケージ、テリー・ライリーのミニマルまで網羅した近現代作曲技法の〝玉手箱〟の様相を呈する。第1楽章のチェロのソロがJ・S・バッハよりもコダーイを思わせるエスニックな佇まい、第2楽章の管楽器のソロの妙技、第3楽章でマリンバが刻むミニマルの響き、とそれぞれ耳を楽しませるツボが見事に決まった。
鈴木優人の指揮は聴衆が最も共感できるポイントを適確に探り当て、聴かせ上手だった。
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