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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

極北のシューベルトbyアファナシェフ

更新日:2018年10月11日


何とも不思議なピアノリサイタルだった。ヴァレリー・アファナシェフのシューベルト・プログラム(2018年10月9日・サントリーホール)。前半が「3つのピアノ曲(即興曲集)D946」、後半が「ソナタ第21番変ロ長調D960」。アンコールは無しで、8時55分終演。


1947年生まれだから、まだ(と、言おう)71歳。それにしては肉体のあちこちにガタがきていて、体調も芳しくないように見え、ピアノもあまりさらっていない感じの音で滑り出した。時には、妙なミスタッチや脱落もある。だが一流の芸術家であればあるほど、コンディションの悪い場面でこそ一種の真価が原形質よろしく顕在化する。むちゃくちゃ異様な暗さと重さで「3つのピアノ曲」の第1曲アレグロ・アッサイは始まり、音の汚さに当惑したのもつかの間、第2曲アレグレットでは音色がどんどん浄化され、指の回りも確かとなった。救いようもなく暗い「アファナシェフのシューベルト」の表現世界が雷雲のごとくにどんどん、広がっていった。


シューベルトは自分にとって、最も好きで大切な作曲家の5指に入る存在だ。ハンガリーの血も引くウィーン人でゲミュートリヒカイト(親密な語りかけ)、ゼーンズーフト(あこがれ)、アインザムカイト(孤独)の3要素が「絶妙のバランスで混在している」としばしば、解説原稿に書いてきた。ところがアファナシェフはゲミュートリヒカイト、ゼーンズーフトをとことん無視、アインザムカイトの心地よさよりも残酷、絶望だけを自らの友とし、聴く者の肺腑をえぐる音楽を平然と奏でていく。極北のシューベルトながら、高度に洗練された美意識もどこかに存在していて、聴衆はいつしかメディア(媒体)のアファナシェフを忘れ、シューベルト自身の絶望に優しく寄り添う伴走者たる自分を発見、深い感動に至る。


数日前のアレクサンダー・パレイのシューベルトが多動性の「お喋り」で、人によっては「シソフレニー」と批判する方向の音楽だったのに対し、アファナシェフは己と作曲家の長年の会話の中で真に共感できた部分だけを執拗に反復する。2人とも「ロシアン・ピアニズム」と分類されるわけだが、表現芸術上の共通点は皆無に等しい。演奏家を出身の文化圏や教育機関、師事した先生の系譜で分類することの愚かさを、改めて思い知る数日間だった。


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