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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

権力の亡者の「女性使い捨て」を描く、「トゥーランドット」の新たな解釈か?


プログラム。新国立劇場(左)は有料、東京文化会館は無料

フランスから帰国して2週間弱の間に3回、プッチーニの遺作オペラ「トゥーランドット」の同一プロダクションの上演を堪能した。東京文化会館を本拠とする東京都交響楽団、スペイン・カタルーニャ自治州のバルセロナ交響楽団の音楽監督、新国立劇場オペラ芸術監督を兼ねる大野和士が2020年の東京オリンピック&パラリンピックをにらんで立ち上げた東京文化会館と新国立劇場初の共同制作プロジェクト、「オペラ夏の祭典2019−20」の初年度はプッチーニ(1858−1924)の遺作「トゥーランドット」(1926)。演出にはカタルーニャのパフォーマンス集団「ラ・フーラ・デル・バウス」の芸術監督(6人)の1人、アレックス・オリエを起用、大野自身が指揮する管弦楽にもバルセロナ響を招聘するなどキャスティングにとどまらず、プロダクション全体に日本とカタルーニャの交流ムードが漂った。バルセロナ響はコンサートツアーも行うので日本滞在が1ヶ月以上に及び、楽屋やロビーでは同行した家族の姿も目立つ。オペラは東京のあと大津(びわ湖ホール)、札幌で上演するが、都内最終公演の2019年7月22日、新国立劇場にはカタルーニャ自治州文化大臣や現地から同行のジャーナリスト、テレビ局クルーの姿も見られ、祝祭の華やかさを盛り上げた。



カタルーニャ自治州のミッション一行

オリエ演出のヴィジュアルは明らかに、人間と人造人間(レプリカ)が混在する近未来のロサンジェルスを舞台にした2017年のアメリカ映画、「ブレードランナー2049」を下敷きにしている。何段ものステップをしつらえた城壁が舞台を取り囲み、中央では姫、皇帝の権力者を載せたステージが上下する。合唱団員は助演者は階段を頻繁に上下したり、長い時間正座で歌わされたりしながら、ステージに押しつぶされないよう注意する必要もあるので、稽古の段階から捻挫、ケガが続出したらしいが、「個」を抑えた無機的な動きに徹していた。合唱は新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブルを集めた大がかりなチーム。新国立劇場首席合唱指揮者の三澤洋史が完璧ともいえる統率で、世界水準に照らしても「最高」と思える「トゥーランドット」の合唱に仕上げていた。TOKYO FM 少年合唱団は階段の上下に少し疲れたのか、普段より少し元気がないように思われた。


「プッチーニの悲劇のヒロイン」を究め、権力者の無慈悲にも考慮した結果、オリエは幕切れのトゥーランドット姫に対し、「リュウの死に感化されて真実の愛に目覚め、2人目の女性(姫自身)も使い捨てる気配で愛のない権力の亡者(カラフ)を決然と拒み、自刃して果てる」との大胆な結末を与えた。ウィリー・デッカーが演出した東京二期会の「サロメ」(R・シュトラウス、2019年6月)も高層建築風で上下のきつい舞台、ヒロイン自刃の結末だったから、妙な既視感を覚えてしまったが、演出家の解釈としては一理あるものだ。7月12日のA組キャスト初日、13日のB組初日を東京文化会館、22日のA組東京千秋楽を新国立劇場で観たが、演奏と演技から余分な緊張が消え、短期間でプロダクションが急激に熟していくさまを目の当たりにするにつれ、自刃に違和感を覚えなくなった。


ただ第1幕冒頭で音楽をいきなり始めず、少女時代のトゥーランドットと「祖母」(実際には何代も前の祖先だったはず)のロウリン姫が戯れているところに侵入者の王が割って入って祖母を痛めつけ、孫が泣きながら逃げ出す=「氷のような姫君」のトラウマの原光景=を寸劇仕立てで見せたのは、最後まで「いただけない」と思う。テレビ朝日の2時間ドラマの冒頭、自殺の名所とおぼしき断崖絶壁で真犯人と被害者がもみ合う導入映像をなぜか、連想してしまった。やはり、いきなり「ダ・ダ・ダーン!」と始めてほしい。物語の下敷きとなるカルロ・ゴッツィの寓話劇以来、イタリアのコンメディア・デッラルテ(仮面喜劇)の文脈で再現されるのが通例の3官吏、ピン、パン、ポンのアルテシェニカ(身体表現)から伝統の要素を完全に排除した部分に最も強く現れていたのは、スペイン人の「イタリア嫌い」か? オリエの手法は「トゥーランドット」の縦軸にあるイタリア演劇の流れを、板前が魚の小骨をピンセットで注意深く抜くように取り去り、第一次大戦後のヨーロッパでプッチーニが挑んだ実験的手法、人間社会の権力構造といった横軸を徹底的に追いかけていた。


大野がメカニック的に最高の状態にある都響ではなく、地元でもオペラのオーケストラではないバルセロナ響をわざわざピットに入れると決めた時点では賛否両論の「否」の声の方が大きかった。だが管楽器のミスが多発した初日からして、すでに「なぜバルセロナ響か?」の理由が痛いほどわかった。パン!と和音が弾けた瞬間に広がる色彩感、いささか土俗的な響き、小さなミスにくよくよしない大らかさなどなど、かつて自分がフランクフルトからバルセロナに休暇で出かけ、一瞬にして覚えた開放感を今更ながら思い出した。例えば第2幕。謎解きを成功裏に終えて「今度は私の名を当てろ」と歌い出す場面、弦楽器の旋律が姫からカラフに替わった瞬間の何とも美しく温かい弦の音色は、まだ日本のオーケストラに、なかなか出せない性質のものである。大野の指揮はイタリア歌劇のマエストロの流儀ではないものの、近未来都市の不気味な響きの錯綜、巨大さを的確に引き出し、ソリストと合唱を最高のテンションに導いていく。思えば「トゥーランドット」はR・シュトラウスの「影のない女」(1917)、ベルクの「ヴォツェック」(1922)などの後に書かれたオペラだ。大野の指揮は、作風の相違より「時代の響き」の共通性を際立たせる優れたものだった。上野の初日はテレビ収録を意識したのか、出演者全員の緊張が流れを削いだが、2日目からは格段に自然な展開となり、しばしば「降りてきた!」と思わせる神がかりの瞬間が出現した。


キャストは甲乙つけがたい。上野の初日が不調だったイレーネ・テオリン(姫)、テオドール・イリンカイ(カラフ)も初台の最終日では第一人者の貫禄を存分に示し、酔わせてくれた。ジェニファー・ウィルソンとデヴィッド・ポメロイのB組はいかにもアングロサクソン圏のドラマティコらしい体型、迫力で持っていく。リュウの中村恵里、砂川涼子、ティムールのリッカルド・ザネッラート、妻屋秀和も、それぞれの持ち味を十分に発揮した。ピン(桝貴志、森口賢二)、パン(与儀巧、秋谷直之)、ポン(村上敏明、糸賀修平)、アルトゥム皇帝(持木弘)、官吏(豊嶋祐壹、成田眞)ら脇を固める日本人歌手も、それぞれカラフ、ティムールなどを歌った経験のあるクラスをそろえ、隙のないアンサンブルを作った。この「総力戦」、来年はワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に向かう。

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