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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

ハイドンからショスタコーヴィチまで〜交響曲史をN響、東響、福島で早わかり


2021年4月第3週末、16日金曜と17日土曜で3つのオーケストラ演奏会へ出かけ、ハイドンからモーツァルト、ベートーヴェン、シューマンを経てショスタコーヴィチに至る交響曲の歴史を駆け足で追体験した。オーケストラのサイズも持ち味も指揮者の年齢も異なるが、肥大化の過程のようなものが見えてきて、面白かった。


1)鈴木雅明指揮NHK交響楽団(4月16日、東京芸術劇場コンサートホール)

ハイドン「交響曲第95番」

モーツァルト「オーボエ協奏曲」(独奏=吉井瑞穂)

シューマン「交響曲第1番《春》」

昨年10月の初共演から半年、鈴木父がN響に戻ってきた。間には息子の優人がブラームスの「交響曲第1番」などで名演奏を披露、コロナ禍がなければ考えられなかった展開である。高速道路の渋滞で遅刻、ハイドンは第1楽章の途中からロビーのスピーカーで聴いたが、キビキビと弾む演奏だった。モーツァルトの吉井も客演首席での出演はあったが、ソリストとしては今回がN響デビュー。鈴木とN響が奏でる幾分ギャラントな趣の管弦楽の中に自らを潜らせ、アンサンブルの一員として隙なく音楽を裏打ちする吉井。ソリストのエゴより音楽の佇まいを尊重する美意識に感銘を受けた。それでいてコンチェルトを聴く楽しみは少しも損なわれないのだから、プロフェッショナルのスキルは相当の高水準にあるといえる。


シューマンの「春」に関しては、賛否が分かれるかもしれない。鈴木雅明の面白いところは、ホームのバッハ・コレギウム・ジャパンなどで18世紀までの音楽を指揮する際は相応に峻厳なのだが、ベートーヴェンではかなり表現主義の様相を帯び、モダン楽器の交響楽団に客演してロマン派を振ると、レナード・バーンスタインも顔負けの熱血指揮者に豹変する点にある。「春」も小編成の対向配置、管楽器のソロに即興の装飾を任せたり、緩徐楽章に現れるコラール(賛美歌)のエコーを際立たせたりする部分ではピリオド系指揮者の流儀を保ちつつ、全体的にはマッチョ志向でぐいぐいと展開する爆演の様相を呈した。これはこれで面白いとはいえ、「N響のシューマン交響曲」を往年の名誉指揮者ヴォルフガング・サヴァリッシュの時代に刷り込まれた世代として(残念!)、相当に面喰らったのも事実だ。


2)「福島章恭シリーズvol.2 珠玉のモーツァルト&ベートーヴェン」(4月17日、杜のホールはしもと)

福島章恭指揮東京フォルトゥーナ室内管弦楽団(コンサートマスター=相原千興)

モーツァルト「歌劇《フィガロの結婚》序曲」「交響曲第41番《ジュピター》」

ベートーヴェン「交響曲第7番」

福島がオーケストラを指揮する演奏会に出かけるのは2019年2月27日、サントリーホールのブラームス「ドイツ・レクイエム」以来2年2か月ぶり。主に合唱指揮者なので極めて妥当な選曲だったが、今回は声楽なしの交響曲がメインのプログラムで興味をそそられた。


録音会場として目にする機会のある神奈川県相模原市、橋本駅前の「杜のホール」を訪れたのは初めて。品川の自宅から首都高、中央道、国道16号経由で90分の距離だ。ショッピングビル7階にあり、駐車場やレストラン街も充実、早めに着いても時間を有効に使える。


東京フォルトゥーナ室内管は6型(第1ヴァイオリン6人)2管編成で対向配置だが、ヴィオラを第1ヴァイオリン隣の下手(しもて)に置き、内声の聴こえを良くしている。弦に比べ管、とりわけ木管が少し弱い気がした。《フィガロ》の序曲では福島が薫陶を受けた音楽評論家で合唱指揮者、故宇野功芳氏のオーケストラ指揮デビュー公演で聴いた超スロー演奏の再来を危惧?したが、ごく普通のテンポであり、カノンなどにおける合唱指揮のノウハウも生きていると思えた。それは《ジュピター》のフレージングにも顕著で、歌のブレスを思わせる〝ため〟を随所に聴くことができた。半面、丁寧に慈しむかのような進め具合が時に、いく分かの停滞を感じさせたのは、功罪あい半ばする部分かもしれない。


ベートーヴェンも基本は同じながら、楽想からくる熱量や推進力の度合いの違いがプラスに働き、かなりの盛り上がりをみせた。とりわけ第3楽章に2度現れるトリオのクライマックスで金管がファンファーレのような旋律を奏で、打楽器が続く場面でテンポを一瞬落とし(ルバート)、壮大にダメ押し(スフォルツァンド)する解釈! もし自分が指揮者なら「絶対にこうしたい」と長く思い続け、夢にまでみた通りの呼吸で実現する光景を目の当たりにした。福島と自分の音楽観が妙なところで一致したのに、すごく驚いた瞬間だった。第1楽章では押し出しが弱いと思われたホルンが第4楽章では大活躍したので、あるいは解釈の一環として、両端楽章の管弦バランスを意図的に変えたのかもしれないと逆算した。


アンコールのシュトラウス父子2曲ーー《ピツィカート・ポルカ》と《ラデツキー行進曲》には「Overcome COVID-19 Concert(新型コロナウイルスに打ち克つ演奏会)」と名付け、「さまざまな制約によって、縮みがちな心を解き放とう、ささやかな日常を取り戻そう、という意図のもと企画しました」と記した福島の思いが集約されていた。


3)東京交響楽団第689回定期演奏会〈原田慶太楼正指揮者就任記念〉(4月17日、サントリーホール)指揮=原田慶太楼、コンサートマスター=グレブ・ニキティン

ティケリ「ブルーシェイズ」(管弦楽版)

バーンスタイン「セレナード」(ヴァイオリン独奏=服部百音)

ショスタコーヴィチ「交響曲第10番」

橋本からサントリーホールまでは60分と快調。それに勝るとも劣らない快速のショスタコーヴィチを聴いた。原田は2か月ぶりに帰国、米国滞在中にコロナのワクチン接種も済ませた。いよいよ日本で最初の固定ポスト、東響正指揮者の仕事が始まった。17歳で日本を飛び出し、米国とロシアで指揮を学んだ原田自身のバックグラウンドを反映した選曲である。


ここでもまた、逆算的な推測なのだが、ショスタコーヴィチの終わりの方でほんのり現れるジャズの影響と、「アーリージャズへの影響を自身の音楽スタイルに組み合わせた」(ティケリ自身の言葉)冒頭の1曲がシンメトリー的な伏線で結びつく、相当に周到な構成か?


古代ギリシャの哲学者プラトンの「饗宴(シュンポシオン)」に基づき、ウクライナ=ユダヤ系米国人のバーンスタインが1954年に作曲した実質ヴァイオリン協奏曲の「セレナード」を中間に置いたことでコスモポリタン、インターナショナルな側面が強調される。さらに、ショスタコーヴィチの交響曲の多くを上田仁の指揮で日本初演した東響でポストを得た意味を自ら問いかけるような部分もあり、かなり知的に吟味されたメニューといえる。


「ブルーシェイズ」では全身を駆使した原田の指揮ぶりに負けないくらい、首席クラリネット奏者のエマニュエル・ヌヴーの立奏による長大なソロ(ジャズ奏者顔負け!)がコンサートの開始を大きく盛り上げた。続く「セレナード」。服部のソロは暗譜で没入度も高く、音の美しさや堅実なテクニックには感心した半面、音量の絶対的不足が気になった。バーンスタイン生誕100年の2018年、高関健指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第314回定期演奏会(3月17日、東京オペラシティコンサートホール)で聴いた渡辺玲子の演奏を唐突に思い出した。現時点での服部はまだ渡辺ほど豊麗な音圧、切れ味鋭いテクニックを獲得していないけれども、年齢からくる演奏経験の差も大きく、今後の成長に期待したい。


ショスタコーヴィチの「第10」は上田が1954年に日本初演。2016年の創立70周年ヨーロッパ公演でも現在の音楽監督ジョナサン・ノットが指揮した東響ゆかりの1曲だ。いつも不思議に思うのは東響のショスタコーヴィチ、日本フィルハーモニー交響楽団のシベリウス、大阪フィルハーモニー交響楽団のブルックナー、東京都交響楽団のマーラーなど、草創期に関わったマエストロの十八番がオーケストラの基本財産として残り、楽員の世代と顔ぶれが一変した後も受け継がれてきたことだ。ショスタコーヴィチを奏でる東響の思い入れ、熱気がもともと強いところで原田が何を付け加え、伝統をさらに前へ進めることができるのか?


先ずは日本のオーケストラ一般の限界突破。原田は音の縦の線をきっちり合わせることよりも音楽のベクトルを重視、横の流れの中に和声の移ろいを際立たせる手法を徹底して、一気呵成にたたみかける。推進力と一体の音圧、音量は猛烈の域に達するが、細かい音型がマスクされるわけではなく、弱音が物をいう場面にも事欠かない。これだけ大きなダイナミックレンジを備えた演奏を日本人指揮者と日本のオーケストラの組み合わせで聴けること自体、すでに1つの限界を突破している。ロシア人でボリショイ劇場管弦楽団、クロアチアのザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団などを経て日本へ来たコンサートマスターのニキティンをはじめ、随所に存在する名手のソロを周到に際立たせ、オーケストラをサウンドクラスターではなく生きた人間、優れた音楽家のプラットフォームとして扱い、ポテンシャルを最大限に引き出す手法によって、音が無機的になるリスクも回避する。そして、ショウピースで派手に振る作品、ソリストとキャッチボールしながら作り上げる作品、熟慮した解釈を丁寧に伝えながら進める作品…と対象に応じて指揮スタイルを柔軟に変え、最適解を探し出す。


旧ソ連のスターリン時代も東西冷戦もリアルタイムで体験せず、ましてや外国人の音楽家が21世紀に向き合うショスタコーヴィチとして、極めて納得のいく音像の再現だった。

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