クラシックディスク・今月の3点(2024年10月)
モーツァルト「交響曲第29、39、40、41番《ジュピター》」※
「セレナード第13番《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》」※※
「フリーメイソンのための葬送音楽」「アダージョとフーガ」※※※
フェレンツ・フリッチャイ指揮
ウィーン交響楽団※
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団※※
ベルリン放送交響楽団※※※
小学校6年生の時(1970年)にフランスのポップシンガー、シルヴィ・ヴァルタン(1944ー)が歌う《哀しみのシンフォニー》を聴き「草原を駆け抜けるような、独特のメロディーだな」と感動したのが、モーツァルトの「交響曲第40番」との出会いだった。数年後、ラジオでジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団のディスク(当時CBSソニー)で接し、原曲は一段と速く、厳しい音楽なのだと知った。もう少し別の演奏も聴きたくなり、生まれて初めてレコード店のクラシック音楽売場に足を踏み入れ購入したのがポリドール(現ユニバーサル ミュージック)の廉価盤レーベル「ヘリオドール」から出ていたフェレンツ・フリッチャイ(1914ー1963)指揮ウィーン交響楽団の「第40番」「第41番《ジュピター》」のLP盤だった。もちろん子どもらしく、モーツァルト→オーストリア→ウィーンの連想も購入動機として働いていた。
最初に再生した時のショックは忘れない。仄暗く重たい情念の世界が支配し、シルヴィの「駆け抜ける哀しみ」ともセルの「峻厳な古典美」とも違う死の世界を感じた。慌てて解説を読むと「第二次世界大戦後のドイツ語圏で最も将来を期待された指揮者ながら癌のため49歳で早逝」とあり、モーツァルトが最晩年の録音で、知名度の低さは彼の存在が忘却の彼方にあることからくると知った。CD時代になってひたすらフリッチャイの音源を集め、モーツァルト「40&41番」も買い直したが、演奏の印象は一貫して「暗く重い」だった。
ところが今回、ユニバーサルとタワーレコードがドイツ・グラモフォン本社のアナログのマスターテープからデジタル変換したSACD/C Dハイブリッド盤のSACD層を再生すると「50年ぶりの驚き」が待っていた。仄暗さの奥からウィーン風の優美な響きがじわじわと溢れ、フリッチャイがなぜ長年のパートナーのベルリン放響ではなく、ウィーン響と録音したかの理由が音色から推し量られた。山崎浩太郎さんの解説によれば、フリッチャイはウィーン響への客演でも高く評価されたが、演奏会でモーツァルトの交響曲を指揮したことは1度もなかったという。「いかにも当時のヨーロッパのレコード会社らしく、実演とは完全に切り離しての制作だった。曲目はまったく無関係、録音会場もコンツェルトハウスではなくムジークフェラインの大ホールなのである」と、山崎さんは記す。1958年(私の生まれた年だ!)から61年にかけての古い録音だが、改めて聴く価値は大いにある。
(DGユニバーサル&タワーレコード)
1)シューベルト「交響曲第8番《ザ・グレート》」(CD1)&リハーサル(1987年6月13&20日)風景(CD2)
2)シューマン「交響曲第2番」/バーンスタイン「ディヴェルティメント」
レナード・バーンスタイン指揮バイエルン放送交響楽団
レナード・バーンスタイン(1918ー1990)は長くヘルベルト・フォン・カラヤン(1908ー1989)のライヴァルと目され、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演は生涯ただ1度(マーラー「交響曲第9番」)しか実現しなかった。ベルリンは旧プロイセン帝国の首都、旧バイエルン王国の首都ミュンヘンとは歴史的に「犬猿の仲」の関係にあるが、バーンスタインは1976年10月17日、ミュンヘン・ドイツ博物館のアムネスティー・インターナショナルのためのチャリティーコンサート(ピアノはクラウディオ・アラウ)でバイエルン放送響を初めて指揮して「相思相愛」となり、亡くなる半年前まで定期的に客演、《トリスタンとイゾルデ》(ワーグナー)の壮大な全曲盤(フィリップス→デッカ)まで遺した。
今回、バイエルン放送協会(BR)の放送音源からCD化されたドイツ=オーストリアのロマン派交響曲2作でも、バーンスタインは古巣のニューヨーク・フィルハーモニック、シューマン商業録音のウィーン・フィル、シューベルト商業録音のロイヤル・コンセルトヘボウ管とも異なる味わいの音楽をバイエルン放響とともに奏でている。《ザ・グレート》にはバーンスタインが達者なドイツ語を駆使したリハーサルの模様も収められており、「シューベルトはジャズなんだよ」といい、きめ細かくグルーヴ感(ノリ)を注入していく様子が興味深い。本番(1987年6月13&14日、ミュンヘン・ドイツ博物館コングレスザール)の演奏は紛れもない巨匠芸で、ほんの少しのフレーズの「ゆらぎ」が音楽に大きな生命力を与える。
もう1点、シューマンの「交響曲第2番」自作の「ディヴェルティメント」は1983年11月10&11日、ミュンヘン王宮内ヘルクレスザールでの演奏。バーンスタインは自身が札幌で1990年に創設した国際教育音楽祭「パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)」の初回に病身をおして現れ、学生たちと狂気の極みのようなシューマン「第2」を演奏した3か月後に亡くなった。ここでも十分に狂い、部分的には札幌でもみせなかった大胆な即興も現れ、よほどバイエルン放響を信頼していたのだなあと思う。
(BR=ナクソス・ジャパン)
ブラームス「交響曲全集(第1〜4番))」、「ピアノ協奏曲第1&2番」※
ズービン・メータ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団、イェフィム・ブロンフマン(ピアノ)※
放送オーケストラのバイエルン放送交響楽団に対しミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団はミュンヘン市営。1979年にセルジュ・チェリビダッケ(1912ー1996)がミュンヘン・フィル音楽監督への就任を要請された時につけた条件は「楽員給与をバイエルン放送響並に引き上げよ!」だった。今日の両者はミュンヘンを代表する2大シンフォニー・オーケストラとなり、2024年11月にも相次いで日本ツアーを行った。
ズービン・メータ(1936ー)は18歳でインドからウィーンに留学、ハンス・スワロフスキー(1899ー1975)教授の薫陶を受け、ウィーン楽壇の〝嫡子〟となった。キャリア前半はカナダのモントリオール交響楽団、西海岸のロサンゼルス・フィルハーモニック、東海岸のニューヨーク・フィルハーモニックなど北米での活躍が目立ったが、1985年にイタリアのフィレンツェ5月音楽祭劇場の音楽監督に就任して以降はヨーロッパ大陸への回帰が鮮明となり、1998〜2006年にバイエルン州立歌劇場音楽総監督(GMD)を務め、ミュンヘン楽壇との絆も強めた。2004年にはミュンヘン・フィル初の名誉指揮者に就く一方、2018年のバイエルン放送響日本ツアーでは首席指揮者(当時)マリス・ヤンソンスの降板に伴う代役指揮を引き受け、破格の円熟境に至った芸風を絶賛された。
ミュンヘン・フィルは2024年1月、メータの名誉指揮者就任20周年を祝うブラームスの連続演奏会を本拠のミュンヘン・イザールフィルハーモニー(音響設計は豊田泰久氏)で企画した。9&10日が「交響曲第3番」と「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」(ヴァイオリン=リサ・バティアシュヴィリ、チェロ=ゴーティエ・カピュソン)、14&15日が「ヴァイオリン協奏曲」と「交響曲第1番」、17&18日が「ピアノ協奏曲第2番」(ピアノ=イェフィム・ブロンフマン)と「交響曲第2番」、20&23日が「ピアノ協奏曲第1番」と「交響曲第4番」。このうちブロンフマンとの2曲の協奏曲が2枚組、4曲の交響曲が4枚組のCDでミュンヘン・フィルの自主レーベル(販売はワーナー)から発売された。
ウィーン・フィルとの「交響曲第1番」セッション録音、最晩年のアルトゥール・ルービンシュタインが独奏したイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団との「ピアノ協奏曲第1番」ライヴ録音をはじめ、メータのブラームスは早い時期から高い評価を得てきた。交響曲全集もニューヨーク・フィル、イスラエル・フィルと過去2度完成、ピアノ協奏曲2つはニューヨークでダニエル・バレンボイムとも録音した。大局的な視点で旋律をたっぷりと鳴らしながら、どこか「秋の寂しさ」のようなものも漂わせるメータの解釈は、ブラームスの理想的な再現に思える。今回、87歳9か月の時点でのライヴ演奏&録音ではミュンヘン・フィルの味わい深い音色をどこまでも生かしつつ、フレーズの随所で巨匠芸の細かさも発揮、過去最高の水準に到達した。長年の盟友、ブロンフマンのピアノも相変わらず見事な出来栄え。
(Münchner Philharmoniker=ワーナーミュージック)
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