井上道義が指揮と総監督を兼ね、野田秀樹が演出したモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」5年ぶり再演の初日を2020年9月19日、ミューザ川﨑シンフォニーホールで観た。5年前と同じホール。
2004年に新国立劇場で「マクベス」(ヴェルディ)を演出したきり「オペラは懲り懲り」と思っていた野田を井上が口説き落とし、幕末長崎に舞台を移した「庭師は見た!」版は生まれた。アルマヴィーヴァ伯爵と伯爵夫人ロジーナ、ケルビーノの3人は「黒船」に乗って現れた異人さん。フィガ郎(フィガロ)やスザ女(スザンナ)ら日本人の雇い主となる。
庭師アントニ男(アントニオ)を俳優の廣川三憲が演じ(歌もうまい)、時にはレチタティーヴォに代わり、手紙のトリックなどの種明かしを語り、キャストは助演俳優が操る棒に従って文楽人形よろしく動くので筋をのみ込みやすい。江戸幕府終焉→開国の激動期を逞しく生き抜く、冷静な「歴史の目撃者」というアントニ男の位置付けは、ロバート・ウィルソンが演出した「蝶々夫人」(プッチーニ)でのゴローにも一脈通じる。フランス革命の時代を背景に貴族(支配階級)、庶民(被支配階級)の形勢逆転を描いたボーマルシェ原作、ダ・ポンテ執筆の「フィガロ」の図式を幕末の日本に取り込み、権力者だがちょっと間抜けな伯爵夫妻と日本の逞しい庶民のバトルに置き換えた翻案自体は面白かった。日本語とイタリア語が入り乱れる歌とセリフは巧妙に継ぎ合わされ、「水と油」の図式も見事に象徴する。
初演時は外国組3人の歌や演技が冴えなかったうえ、1階前方の席でみる限りドタバタ感が強調されてしまい、5年前は正直、違和感の方が先に立った。今回も3役を外国から招く予定だったが感染症対策で断念、日本在住ロシア人バリトン歌手ヴィタリ・ユシュマノフが伯爵、ドイツ人と日本人ハーフのソプラノ歌手ドルニオク綾乃が伯爵夫人、カウンターテノールの村松稔之がケルビーノという超ユニークな代役トリオがギリギリのタイミングで決まった。ヴィタリは音域が合ったのとオペラ出演歴も増えつつあるのが奏功、ドルニオクは2年前のアレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル定期演奏会のストラヴィンスキー「ペルセフォーネ」日本初演に抜擢されたころの頼りない歌と比べれば長足の進歩、村松は国籍ではなく声域で〝異分子〟性を強調、多くが初演時から参加している日本人キャストとのアンサンブルにも良く溶け込んだ。バルバ里奈(バルバリーナ)のソプラノでベネズエラ生まれの日本育ち、駐日ベネズエラ大使夫人でもあるコロンえりかの存在感と声も素晴らしかった。
フィガ郎の大山大輔、スザ女の小林沙羅の2人は初演のころに比べて音域ごとの発声ムラが目立ち、オペラというよりミュージカルに近いシャウトで対応する場面が何箇所かあった半面、そろって演技達者で舞台狭しと動き回れるし、何よりも野田演出を完全消化しているので、大した問題ではなかった。マルチェ里奈(マルチェリーナ)の森山京子、バルト郎(バルトロ)の三戸大久、走り男(バジリオ)の黒田大介、狂っちゃ男(ドン・クルツィオ)の三浦大喜ら脇を固める歌手たちの〝濃い〟演技もしっかりとアンサンブルにはまり、求心力のある舞台を作り上げた。今回は2階席から舞台全体を観れたので、野田が「フィガロ」を隅々まで読みこなして人々を縦横無尽に動かし、オペラハウスではなく公共ホール中心に回るツアー用の簡素な装置を最大限効果的に使い回す手腕をじっくり、味わうことができた。
東京交響楽団を指揮した井上は、ドルチェ(甘美)でレガート(滑らか)なモーツァルトを美意識の根本としているので、同じオーケストラで音楽監督ジョナサン・ノットが指揮したエッジの切り立った「フィガロ」を記憶している聴き手には少々「まったり」と響いたかもしれない。だが第4幕で伯爵が夫人に許しを乞う場面ーー「フィガロ」全曲の音楽上のクライマックスでホール全体に広がった柔らかく温かく、しみじみとした情感は大マエストロの音楽にほかならず、味わいが深かった。「5年前より良かった」とLINEでメッセージを送ったら、「たぶん癌でダメだった井上とかいう指揮者が元気になったからだと思う」と実に率直な打ち返しがあった。本当、元気になられて良かったデス。
ツアーには10月18日の北九州芸術劇場、10月30日と11月1日の東京芸術劇場が控えている。過剰なネタバレは再演であっても避けなければならないが、どうしても書いておきたいのは幕切れの見事さ。伯爵夫人は伯爵の「許しておくれ!」を「その場しのぎの弥縫策(びぼうさく)」としかみておらず、怒り心頭の体(てい)で大胆な行動に出る。旧世代の私は思わず、薬師丸ひろ子主演の角川映画「セーラー服と機関銃」(1981年)を思い出してしまったけど、あとは、観てのお楽しみ!
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